ベトナム 歴史

【ベトナムの歴史】観光いくなら知っておきたい、フランスとの関係

■ベトナムの歴史:なぜ、ベトナムの歴史を知っておきたくなったのか?

高校時代は世界史は全然カタカナの人物や地域が覚えられなくて、やる気もなく、赤点も取ったぐらい。そんな私ですが、今はベトナムの歴史について知りたいと感じてます。それは観光でいろいろなベトナムの博物館などを巡ると、『ベトナムの歴史について知らなくては!』と、思わされることが多かったからです。

はじめてそう感じたのは、ダナンの博物館を訪れた時。
最近だとハノイの歴史博物館を訪れた時。

フランスのルーブル美術館を彷彿させるダナン博物館

特になにがそう思わせるかというと、戦争関係の展示物がフランスの占領からはじまりベトナム戦争の終わりまでが展示されていることが多かったからです。日本にいると、少なくとも私は、一番強い印象なのが、第二次世界大戦の太平洋戦争であって、それ以外は、歴史の中の一つの出来事のように感じてしまっていました。これは、写真やドキュメンタリー映画で、東京大空襲や広島、長崎の原爆について小さい頃によく見る機会があったことによるものと思います。

今はわかりませんが、わたしは小学生時代、原爆のドキュメンタリー映画を体育館で小学校の授業の一環で見た記憶があります。家でも『はだしのゲン』という原爆の被害者が原爆にあいながらどのような生活を生き抜いていったかというマンガを読んだ記憶があります。

そのような背景もあり、日本にいる時は、このフランスの占領という知識については深掘りすることもなく、ただなんとなく東南アジアはフランスに支配されていたと、認識しているぐらいでした。なので、どういった経緯でベトナムもしくは東南アジアがフランスに占領されていったのかなど理由を知りたくなったのです。というわけで今回、世界史が赤点だった私がそんな過去の私にもわかるように、わかりやすくベトナムの歴史をまとめてみました。ぜひ、ベトナムをより深く理解するための参考にしていただければと思います。

■ベトナムの歴史:実はベトナム受難の話は、15世紀の大航海時代から話ははじまる

色々調べていくとフランスがベトナムに来たのはナポレオン3世が今のホーチミン、昔のサイゴンにやってきたことから始まっています。さらに、なぜナポレオン3世がやって来たかというと「中国」という巨大な市場を、当時イギリスやその他の国が狙っていたのと同じく、フランスも中国を当時狙っていて、中国進出の足がかりを作るためにベトナムの現在のホーチミンあたりを攻めてきたことに始まっているのです。(下図の黄色の部分です。=Wikipediaより引用)

黄色がコーチシナ

東南アジアの香辛料を求めて欧米の各国が東南アジアを植民地化しようとする動きがあったということも理由の一つです。なぜその時に香辛料をもとめはじめたかというと、ちょうどその頃に香辛料の産地である東南アジアと欧米との間に巨大な東ローマ帝国(ビザンツ帝国)ができていて香辛料が手に入りにくくなり、手に入ったとしてもイスラム商人の手を介して入るので値段が高かったということで、「直接香辛料を手に入れたい」という動機が働いたものです。

欧米人の食文化は肉食で、冬の間も肉を食べるために保存していたのですが、当然保存の過程でその肉は腐ってくるので悪臭を放ちます。そうした匂いを消すために肉食中心の欧米人にとって香辛料は必需品だったのです。

■ベトナムの歴史:1858年からナポレオン3世遠征、そしてベトナム南部コーチシナ占領

以上のような経緯があり、明治維新の10年前にあたる1858年から1862年にかけて、ナポレオン3世が現在の南ベトナムに遠征してきて当時のベトナムの王朝である、阮朝(グエンチョウ)とサイゴン条約を結びました。これによりコーチシナと言われるベトナム南部の地域がフランスの占領下に置かれました。これがフランスによるベトナム統治の始まりです。

同時期である1857年にイギリスは、インド大反乱を鎮圧し、その結果1858年に「インド統治改善法」によって、それまでの東インド会社をとおした間接統治だったものを、イギリスによる直接統治とし、インドの植民地化をより明確化した時期でした。そんなイギリスの動きも影響して1858年からのナポレオン遠征があったものと考えられます。

■ベトナムの歴史:1883年、1884年、ベトナム中部アンナン(安南)をフランスが占領

そしてその後、1883年、1884年、にユエ条約が結ばれます。これはユエとフランス語読みですが、実際はフエと発音します。ダナンに住んでいた時にフエ出身の方によくあったので、普通に「フエ」「フエ」と発音していましたが、「フエ」が「ユエ条約のユエのこと」というのはびっくりしました。ベトナム中部の阮朝(グエンチョウ)がベトナム中部の都市、フエにあったことから、ユエ条約(フエ条約)と呼ばれているのです。

フエのグエン朝王宮跡

このフエ条約で、安南とよばれるベトナム中部をフランスの保護国とすることが明確にされたのです。1883年時点では、あいまいな条約だったのですが、1884年に保護国、つまり外交権がない、つまりはフランスの支配下に置かれることが明確化されました。

■ベトナムの歴史:怒った中国清王朝。しかし敗北、そして天津条約

実はその時に怒ったのが、ベトナムと朝貢貿易を行っていた中国の清朝。朝貢貿易とはある国が中国の王朝に貢物を持って行って、その代わりに下賜品といわれる返礼品を受け取るやりとり。「貿易」とはいうものの、あくまでも中国が中心で文化的に遅れをとっている周辺諸国に、恩恵を施すという中華思想の考え方に基づいているため、朝貢貿易を行うということは、中国の臣下に入るということであった。そのような関係があったため、フランスのベトナムへの進出に対し中国、清朝は怒ったのです。

まとめると、

1858-1862 ナポレオン3世遠征
→ベトナム南部、コーチシナ占領

1883→ベトナム中部、アンナン(安南)はフランス統治下とするフエ条約
1884→ベトナム中部は、保護国であると明確にしたフエ条約
1884→清朝が怒った

という流れ。

こうして中国清朝とフランスの戦いが始まったのですが、清朝は敗れて、フランスのベトナム保護国化を認めることとなったのです。

1884年 清仏戦争
1885年 天津条約

■ベトナムの歴史:ナポレオン3世からフランス保護国化までの振り返り

ダナンで博物館、ハノイの歴史博物館に行った時、19世紀後半のフランス軍の進駐の様子の写真が何枚かありました。そのときにはじめてベトナムにとっての戦争のはじまりは、フランス軍から攻められた時なのだと認識しました。

ベトナム南部がフランスに攻められ始めたのが1858年。ベトナム中部、つまり安南と呼ばれる地域がフランスに占領されたのが1885年。このあたりから、ベトナムの受難がはじまっていたのです。日本に住んでいた時はまったくわからなかった歴史が現地に住み、3年の間に博物館や各地の世界遺産に触れることで事実がわかってきました。

歴史というのはそれを書いている人の立場で変わってきます。その意味でこの3年間、ベトナムの立場からの展示品などに触れたことはとても良い体験となりました。日本から見たベトナム。世界の歴史の流れからみたベトナム。そしてベトナムからみたベトナム。すべて違った面が見えてきます。

このベトナム、その後、日本からも1941年にフランス軍からの解放ということを口実に攻められ、1941年から1945年は日本とフランスによる二重支配下となったのです。実はこのようなことは、私はベトナムに来ていろいろ学ぶまで認識がありませんでした。いま、仕事のパートナーとしてベトナムに来ていますがいろいろなことを学びそのうえでベトナムという国、そしてベトナムの方をリスペクトしながらこれからもやっていきたいという思いを新たにしました。

ベトナムは1945年8月に第二次世界大戦が終わり日本も負けたことで、1945年9月2日に独立を宣言するのですが、その後も受難は続きます。これについては、また別の機会に触れていきます。

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