カンボジアの歴史とは?
大学生のころ、なぜだかアンコール王朝の遺跡の話を耳にしていました。だからこそいつかは行きたいとおもっていたのですが、この2年間で二度訪れることとなりました。
だけど、行ってみて分かったのは
「なんと、自分はカンボジアの歴史をしらないのだ!」
ということでした。
ということで今回はカンボジアの歴史で今回学んだことをざっくりまとめてみます。
アンコール王朝の歴史は600年:西暦802年~1431年
カンボジアのアンコール王朝は802年~1431年くらいまでの約600年間栄えた王朝。802年にジャヤーバルマン2世によりはじまり、1431年にアユタヤ王朝に攻められプノンペンに落ち延びるまで続きました。そのあとは、1850年くらいにフランス軍により発見されるまで森の中に閉ざされます。
1431年にとざされたのはアンコール王朝がアユタヤ王朝(現在のタイ)から攻められ、プノンペンへと避難したからです。カンボジアというのは、カンボジアという名前ではそれほど現在おおきくありませんが、その昔はアンコール王朝として、上記の図の緑色のエリアのように、大きな勢力をもっていたのです。
現地でアンコールワット王朝でガイドさんの説明をうけているなかで、アンコールワットの遺跡に「ムエタイ」とおもわれる彫刻の壁画がありました。ガイドさんによれば、だからこそ「ムエタイ」はそもそもはタイのものでなくて、カンボジア(アンコール王朝)が発祥なのだという話も聞くことができました。
アンコールワット遺跡は600年の歴史をもつアンコール王朝のなかで12世紀初頭につくられたといわれますので、西暦1100年過ぎにはムエタイがあり、おこなわれていたとのこと。ムエタイって私はルールはしらなかったのですが肘を使うことが許されているそうです。だからこそ危険なので、ほかの国の似たような競技では、肘を使うことが禁止されているとのこと。
危険だからこそ、隣国との戦いなどでは実践ではつかわれていたのかと想像します。軍隊の実践用武術としてもつかわれているそうなのでやはり、、、という感じです。肘うちのYoutubeをみてみましたが、確かに破壊力が抜群です。
南ベトナムの歴史
ガイドさんの話をきいていたら、南ベトナムはアンコール時代はアンコール王朝の範囲であったといっていたので地図をみると確かにアンコール王朝の勢力範囲に南ベトナムが入っています。このエリアにはカンボジアの言葉であるクメール語を話せる人もおじいちゃん、おばあちゃんの世代ではけっこういるそうです。
私自身はこの辺りは旅行ではいったことはあるのですが、住んではいないので実際、どの程度の方がクメール語を話せるのかはわかりませんが、そういわれるとこの地域の人の顔が北部のハノイの方とはちょっと違うように感じるので、たしかに影響はなるのかな?と歴史を感じます。
1800年代後半からのフランス統治下では、ラオス、ベトナム、そしてカンボジアが、フランスの統治下となっていたので、こうした歴史的背景も影響しています。カンボジア政権は、明治維新の5年前の1863年及び1884年の2度の条約締結でフランス植民地となりました。
イギリスが中国への進出をにらんで、インド周辺から攻めてきたことからフランスは同じく中国進出をにらんで、タイを緩衝地帯として東南アジアに攻め込みました。こうした欧米からの圧力の歴史の中、1431年以降、森の中に閉ざされていたアンコールワットがフランスのアンリ・ムオにより発見されアンコールワットの存在がひろくしられることとなりました。
1975年 第二次世界大戦後のカンボジア
1863年くらいからのフランスに支配されていたカンボジアですが、インドシナまで進駐してきていた日本軍によりフランスから解放されます。ところが、1945年8月の日本の敗北により再度フランスの支配下となります。そうした中、1953年11月9日にカンボジアの独立がなされ、シハヌーク政権が始まります。
このシハヌーク政権は1970年にアメリカから支援をうけたロンノル将軍から政権を奪われます。このロンノル将軍はアメリカから支援をうけることでクーデターに成功したのです。アメリカはカンボジアを自分の支配下におくことでベトナム戦争を有利にするためにロンノル政権を支援していたのです。
これに対して、アメリカの後ろ盾をうけたロンノル将軍によりクーデターをおこされたシハヌークは中国に逃げます。このときに中国がシハヌークとシハヌークと対立していたクメールルージュといわれる共産主義にかたよった勢力とを仲直りさせ、シハヌーク、クメールルージュが中国の援助のもと力を持ちます。
そんななか、ロンノル将軍を支援していたアメリカが、1975年にベトナム戦争の終戦とともにベトナムからひきあげるのと同時にカンボジアからも引き上げます。このタイミングで、北ベトナムからも支援をうけていたクメールルージュの勢力が1975年4月17日、首都プノンペンを攻め込みました。ベトナムのサイゴンがアメリカの手から北ベトナムの手に落ちたサイゴン陥落の日の2週間前の日でした。(サイゴン陥落は、1975年4月30日)
このときに、いったんはこれで戦争がおわると、よろこんだカンボジアのプノンペンの市民たちをしり目にその日のうちに、その後、カンボジアの政権をとるポルポト派のクメールルージュは、プノンペンの市民たちをすべてプノンペンから強制退去させました。このことがカンボジアのキリングフィールドのはじまりです。
ポルポト派による極端な共産主義:キリングフィールドのはじまり
ポルポト派、クメールルージュは当時の中国の共産主義をまねて、なおかつ「極端な」共産主義へと移行させようと考えました。そうしたことが背景にあり、この極端な共産主義へと移行するにあたり、邪魔になりそうな人間を排除しようと考えたのです。
だから、このときに、プノンペンの市民たちはクメールルージュより、職業をきかれ、「農民」と答えると歩いて移動させられ、農村へと移動させられたようですが、「政府関係者」や「教育者」、といった農民以外の職業をこたえると車に乗せられ、虐殺の対象となってしまったのです。いったん死を逃れたとしても、収容された場所で、質問をされ看守の思い通りの答えを答えないと「勉強しにいけ」といわれ、帰らぬ人となったのです。当時、「勉強しにいけ」は虐殺されることの隠語だったのです。こうした虐殺の対象となった中には、ムエタイの選手や有名な俳優も含まれていたとのこと。
いま、これら虐殺にあった方々の遺骨がアンコールワットにあるキリングフィールドとよばれるお墓に収められています。頭蓋骨などが象徴的に置かれていて残虐さを感じずにはおられない場所です。
このような状態は4年間続きます。クメールルージュこと、ポルポト派が政権を取っていた1979年の1月までのたったの4年間程度で、約170万人ものひとを虐殺で死へと追いやったのです。こうしたポルポト派への反抗する勢力があらわれました。これがヘン・サムリン政権です。このヘン・サムリン政権は隣のベトナムの支援をうけ立ち上がります。そして、ポルポト派から政権を奪取します。ところがこのベトナムの支援に怒ったポルポト派、クメールルージュの後ろ盾をしていた中国がベトナムへと進行します。
これが1979年の中越戦争です。ただこの戦争もベトナム戦争で実戦を戦ってきていたベトナム軍はつよく中国を追い返します。その結果、ヘン・サムリン政権がこの後しばらく続くこととなります。
カンボジアの内戦:3つの勢力xヘン・サムリン政権
ベトナムの支援を受けたヘン・サムリン政権ですが、反ベトナムで協力しあった
1.シハヌーク派
2.ポルポト派
3.ソンサン派(クメール人民民族解放戦線)
と戦うことになります。これがカンボジアの内戦です。このときにポルポト派はジャングルに逃げ込み夜になると出てきて戦いを起こします。そして夜があけるときにはジャングルへと戻ります。そうした時の隠れ家となっていたのが今は観光地の一つとなっているベンメリア遺跡です。
いまではベンメリア遺跡はラピュタの参考にされた場所ではといわれて観光地にもなっていますが、当時は周囲に地雷がうめこまれ、容易には近づけない状態でした。今もベンメリア遺跡は修復されずに、廃墟の様相を呈しています。
さて、こうして続いていた内戦ですが、1990年6月にこれらの紛争当事者による東京会議が行われ、SNC(カンボジア最高国民評議会)が設置され、1993年日本の明石康 代表による国連のUNTAC がカンボジアで活動を開始し初の選挙による国民議会をつくることに成功し終わりを迎えます。
キリングフィールドの犠牲者の数
大量虐殺は、アメリカの支援をうけていた政権をロンノル将軍が政権を手放し1975年4月1日にハワイに逃げたことに始まります。ちょうど、ベトナムでも北ベトナム軍が南進していた時期と重なります。1975年4月1日ごろはベトナムの中部あたりを南進していたころです
1975年にクメールルージュがプノンペンを征服し、ポルポト政権になると、ポルポト派により大量虐殺の歴史がはじまります。農業をやることが国の幸せとなると極端な解釈をして、知識人などは不要として農民以外の方をことごとく粛清していったとのこと。
その数、170万とも200万、飢餓なども含めると300万とも聞きます。横浜市の人口が400万人程度ですから、その約半数以上にあたる数と考えるととても多くの命がたたれたのだとわかります。
カンボジア まとめ
カンボジアの歴史: カンボジアの「キリング・フィールド」は、1975年から1979年まで続いたクメール・ルージュ政権下での大量虐殺を指し、多くの犠牲者が出ました。当時、カンボジア社会の再構築を目指し、極端な共産主義をめざされました。
国際的な認識: この事件は1980年代に欧米で広く公表され、オスカーを受賞した映画『キリング・フィールド』や、デッド・ケネディーズのパンク・ロック・アンセム「Holiday in Cambodia」を通じて世界的に知られるようになりました。
影響を受けた人々: ポルポト派、クメール・ルージュの犠牲者の中には、都市部の知識層やプロフェッショナルが含まれ、彼らは体制への脅威と見なされたため、多くが虐殺されました。犠牲者の中には、後にアメリカで俳優として成功し、オスカーを受賞したDr.ヘンク・ヌーもいます。
文化的・社会的背景: ポルポト派、クメール・ルージュは、カンボジアが以前にフランスの支配下にあった歴史や、農村部と都市部、さまざまな民族間の不平等と緊張が存在する複雑な社会構造を背景に、極端な政策を推進しました。
解放とその後: 1979年にカンボジアはベトナムによって解放され、ポルポト派、クメール・ルージュは打倒されました。しかし、ポル・ポトは正義の審判を受けることなく、死亡しました。この歴史的事件は多くの犠牲者を出し、カンボジアだけでなく国際社会にも深い影響を与えました。
現地のキリングフィールドに訪れるとポルポト政権時に権力を握っていた人の写真があり説明を受けることができました。かなり衝撃だったのが、そうした政権の中枢にいた人達が今もなお存命でなおかつ、「上から言われたので仕方がなかった」と証言してそのまま許されているということを聞いたことです。
どこかの会社で行われているような話が、現実にもこうして行われているという事実がとても衝撃でした。
「上に言われたから仕方がなかった」
この言葉、日本でも似たような形で何度かこの数年ききました。
「コーチから言われやってしまった」
などといった話もスポーツの世界でも聞いた気がします。
よい、わるいを自分の頭で判断し、実行していくことの難しさを感じます。人間は集団になると不合理な判断をすることがあります。赤信号みんなで渡ればこわくない、なんて言葉が日本にはありますが、それではいけないと感じます。
「上がいうから従った。そむけば自分が殺される」
この言葉に、『歴史は繰り返す』人間社会の難しさを感じます。