ベトナムは南進していた
ベトナムの歴史ってどんな感じなんだろうなと思って色々調べると日本と違ってどんどん南に伸びているということが分かりました。
日本の場合は島国で明確に島があることで拡大するという感覚がそれほどないのですがベトナムの場合、地続きとなっているため、時には食料のためであったり、時には政治的な意図で領土を拡大していったようです。
日本で、豊臣秀吉が各地を自分の勢力範囲にしていき、全国統一を果たしたイメージに近いのかなとも思います。ただ、日本と決定的に違うのはいつの時代も陸続きで他国と接していたというところです。
そのことは、中国との国境にいくと肌で感じます。
上記の写真はベトナムの北側の国境付近を訪れたときの物なのですが、国境の先に、「中華人民共和国」の文字がみえます。拡大すると下記の通り。
あるいて、国境をまたげてしまう、という事実はホント衝撃的な感覚でした。
ベトナムの南進の歴史
ベトナムの南進の歴史を調べていくと、まずはチャンパ王国のあった部分。そしてそのあとはカンボジアの支配下にあった部分へと伸びていきます。
上記の図面で11世紀の李朝のころは緑部分はチャンパ王国があり、そのチャンパ王国との争いの過程でだんだんと勢力を南に伸ばしていきました。ベトナム中部のダナンに観光でいくと、観光地のひとつとしてホイアンに行くことが多いのですが、実はそのホイアンには、1593年につくられたといわれる日本橋があります。
この日本橋は勘合貿易で日本が東南アジアと交流していたときの名残でその時代東南アジアの各地に日本町をつくっていたのですが、ホイアンはその一つだったのです。
このホイアンから日本へは生糸の輸出が多く行われていたのですが、江戸時代にはいり日本が鎖国体制となってしまったためにこのホイアンが衰退することとなったようです。
チャンパ王国との争い
カンボジアのアンコールワットにいくとアンコール王朝時代に、チャンパ王国と争ったときの壁画があり、チャンパ王国がそれなりの勢力をもっていたことがわかります。実際下記の図面でもわかるとおり現在のベトナム中部をほとんど包括していました。
しかし、ベトナムの南下政策により、チャンパ王国も勢力を縮小されていきます。今ではチャンパ王国の主体であったチャム族もかなりすくなくなっているとききますし、チャンパ王国の遺産もダナンから1時間ほどいったミーソン遺跡としてのこるばかりです。
ちなみに、現在のホーチミンにあたる最南端部分はチャンパ王国の勢力範囲ではなく、アンコールワットに王朝をおく、アンコール王朝、つまり現在のカンボジアの支配下となっていました。この地域はメコンデルタといわれ農業地としてとてもいい場所であったこともあり、ベトナムの南下政策の目的地となったのです。
二万ドン札のホイアン、日本橋
ベトナムのお札、二万ドン紙幣にはホイアンの日本橋が描かれています。ベトナムのお札にはすべてホーチミンさんが描かれているのですが、そのお札に、なんと日本橋が描かれているのです。
ベトナムのお札を作った方が何を考えて日本橋を採用されたのかはわかりませんが、今回お話ししたホイアンの歴史的な立ち位置を知ったうえで訪れるのも面白いものです。