寝ている仏像をみて「なんで寝てるんだろう?」って思ったことないですか?
わたしはベトナムダナンで仏像の裏で寝ている仏像をみたり、ミャンマーの知り合いの写真を見て大きな寝ている仏像を見たりしてきました。ただ、今まではただ寝ていると思っていただけなのですが、今回、ラオスのルアンバパーンのワット・シェントーンを観光したときに、お寺の外壁に書かれた寝ている仏像をみていたときに、ふと思いました。
「なんで寝ているんだろう?」
今更ながらこんな疑問をおもったので調べてみると、この寝ている状態は、涅槃といい、この寝ている仏像の状態は、全ての煩悩が消え、全ての苦しみが無くなった状態で、最も悟りを開いている高度な状態 なのだということがわかりました。そういわれて、寝ている仏像をみると安らかな顔に見えてきます。
観光する際、お寺って結構行くと思います。
そして、寝ている仏像に特に東南アジアでは出会うと思います。
そんなときに、それは、
全ての煩悩が消え、全ての苦しみが無くなった状態で、最も悟りを開いている高度な状態であるということがわかると、見る目も変わってくると思います。ぜひ参考にしてみてください。
涅槃の意味と定義
さて、この「涅槃」という言葉を聞いたとき、どんなイメージを思い浮かぶでしょうか。少なくとも私はこの涅槃という言葉は聞いたことはありましたが、今回、「何もかもから解放された状態」ということを初めて認識しました。そして、しらべていくと、涅槃にはもっと深い意味があったのでここで紹介しておきます。
涅槃の語源と原意
涅槃の言葉の由来は、サンスクリット語の"ニルヴァーナ"にあります。これは「吹き消す」という意味を持っています。具体的には、私たちの心を悩ませる煩悩という火を吹き消した状態を指すのです。
ある仏教学者はこう説明しています。「涅槃とは、まるで吹き荒れる風が蝋燭の炎を消すように、私たちの心の中にある煩悩という炎を消し去った状態なのです」と。なるほど、とてもわかりやすい説明ですね。寝ている仏像の顔をみているとなんだか納得できます。
仏教における涅槃の定義
では仏教では、涅槃をどのように定義しているのでしょうか。大乗仏教の代表的な経典である『涅槃経』では、涅槃を以下のように説明しています。
「涅槃とは、一切の煩悩を滅し尽くし、究極の悟りの境地に到達した状態である」
つまり涅槃とは、私たちが日頃抱えているさまざまな悩みや執着から完全に解放され、心の安らぎに満ちた理想的な状態を意味しているのです。それは正に、仏教徒が目指す最高の目標と言えるでしょう。
ただし、涅槃の具体的なイメージについては諸説あり、宗派によってもその捉え方は微妙に異なるそうです。
涅槃とは、煩悩を滅し、悟りの境地に到達した理想の状態なのです
涅槃に至るまでの道のり
さて、涅槃という理想の境地に到達するためには、一体どのような道のりを歩む必要があるのでしょうか。ここからは、涅槃に至る二つの重要な段階について見ていきましょう。
悟りを開くこと(菩提)
涅槃に至る第一歩は、何といっても悟りを開くことです。仏教ではこれを「菩提」と呼びます。菩提とは、私たちの心を惑わす煩悩という暗闇を払拭し、真理の光明を見出すことを意味しています。
禅宗の僧侶はこのように言っています。「悟りを開くとは、まるで長い間閉ざされていた部屋の窓を開けて、初めて外の景色を眺めるようなものです。今まで見えていなかった真実の姿が、そこに広がっているのです」と。
ただし、この悟りを開くことは容易ではありません。長年の修行と深い内省が必要とされます。でも、一度悟りを得てしまえば、もう二度と元の闇の世界に戻ることはないのです。
涅槃の二段階
実は涅槃には、二つの段階があると言われています。
一つ目は「有余涅槃」です。これは悟りを開いたものの、まだ肉体を持っている状態を指します。つまり、悟りを得てはいるけれど、まだ現世に生きている段階ということですね。
そして二つ目が「無余涅槃」です。これは文字通り、肉体が消滅した後の涅槃を意味します。悟りを開いた者が肉体の死を迎えた時、その魂は完全な涅槃の境地へと到達するのです。
涅槃への道は険しいけれど、その先にある安らぎは何物にも代えがたい価値があるのです
涅槃とお釈迦様
仏教を語る上で欠かせない存在といえば、それはやはりお釈迦様でしょう。実はこの涅槃という概念は、お釈迦様の生涯と深く結びついているのです。ここからは、涅槃とお釈迦様の関係について探ってみましょう。
お釈迦様の入滅と涅槃
お釈迦様は80歳で亡くなられましたが、仏教ではこれを「入滅」や「涅槃」と表現します。一般的な「死」とは異なり、入滅や涅槃には特別な意味合いがあるのです。
「お釈迦様は単に死んだのではありません。生死の苦しみから完全に解き放たれ、究極の悟りの境地に到達されたのです」とある仏教学者は説明します。つまり、お釈迦様の死は、まさに涅槃そのものだったと言えるでしょう。
涅槃会と涅槃図
お釈迦様が涅槃に入られた日は、旧暦の2月15日とされています。この日は「涅槃会」と呼ばれ、多くの寺院でお釈迦様の入滅を偲ぶ法要が営まれます。
また、お釈迦様が涅槃に入る際の様子を描いた絵画を「涅槃図」と言います。涅槃図では、お釈迦様が安らかに横たわり、弟子たちに見守られている情景が描かれています。まるで、お釈迦様が私たちに「安心して、私は涅槃という安らぎの地に旅立つのだよ」と語りかけているかのようですね。
お釈迦様の入滅は、涅槃という究極の境地への到達を示しているのです
涅槃の意義と現代的解釈
ここまで、涅槃の意味や歴史的背景について見てきましたが、現代を生きる私たちにとって、涅槃にはどのような意義があるのでしょうか。最後に、涅槃の持つ現代的な意味合いについて考えてみたいと思います。
仏教の究極目標としての涅槃
仏教において、涅槃は最も重要な目標の一つとされています。それは、私たちが日々感じているあらゆる苦しみからの解放を意味しているからです。
ある仏教僧はこう語ります。「現代社会は物質的には豊かになりましたが、人々の心は以前にも増して疲れているように感じます。そんな時代だからこそ、涅槃の教えが私たちに心の安らぎを与えてくれるのではないでしょうか」と。
現代社会における涅槃の意義
確かに、現代社会では多くの人がストレスを抱え、心の平穏を失っているように見えます。そんな中で、涅槃は私たちに一つの理想の在り方を示してくれているのかもしれません。
「涅槃を目指すということは、自分の内なる煩悩と向き合い、それを乗り越えていくことだと思います。それは現代に生きる私たちにとっても、とても大切な心がけではないでしょうか」と、ある心理学者は指摘します。
涅槃は、古来より人々が求めてきた心の安らぎの象徴ともいえるでしょう。その意味で、現代社会においてこそ、涅槃の教えが私たちの心を癒し、導いてくれるのかもしれません。
時代が変わっても、涅槃の教えは私たちの心に深く響くものがあります
まとめ:涅槃の本質
さて、ここまで涅槃について様々な角度から探ってきましたが、そろそろ全体をまとめてみましょう。涅槃とは一体何だったのでしょうか。
涅槃とは、端的に言えば仏教の究極の理想境地です。それは、私たちの心を悩ませる煩悩という炎を完全に吹き消した状態を意味しています。涅槃に到達するためには、長い修行の道のりが必要とされます。
また、涅槃はお釈迦様の入滅とも深く結びついています。お釈迦様が亡くなられた時、その死は単なる死ではなく、涅槃という究極の悟りの境地への到達だったのです。
日本では、あまり涅槃のお釈迦様、仏像を見ることはないように思います。一方で、今回のラオスやミャンマーでは頻繁に見る気がします。その差は、日本は大乗仏教であるのに対して、ミャンマーやラオスは上座部仏教という違いがあるのかもしれません。
上座部仏教は修行をしっかりとしたもののみが救われるという教えです。個人の悟りと厳格な修行を重視しているので、そうしたことを重視している先にあるものとして、涅槃があるので、涅槃のお釈迦様をミャンマーやラオスでみることが多いのだと思います。
上座部仏教が重視する個人の悟りと厳格な修行の目標が涅槃なのです。