ベトナムのダナンに行くと観光地の一つとしてミーソン遺跡があげられます。ミーソン遺跡と言ってもたぶん、日本から来るとあまり馴染みがないと思いますが、実はこのミーソン遺跡の元となってるチャンパ王国というのは日本では皆さん知っていると思われるアンコールワットと深い関係があると私は思っています。
今日はそのことについてお伝えしたいと思います。
似ているチャンパ王国ミーソン遺跡とアンコールワット遺跡
私がミーソン遺跡を訪れた時にまず思ったのがなんとなくアンコールワットに似ているということでした。その時は歴史的な知識もなかったので、なんとなく似ているように感じていて、でもなぜなのかはよく分かりませんでした。
実際次の写真を見てください。ベトナムダナンのミーソン遺跡とカンボジア、シェムリアップのアンコールワットの写真です。屋根がとがった建物になっているのが特徴的です。ヒンズー教の建物はヒンズー教の神様が山にいると考えられているためにこのような先がとがった建物となっているのです。
アンコールワットでは当初はヒンズー教寺院として使われていましたが、そののち仏教寺院として使われることとなったために建物の中には、仏像があとからもってこられて配置されていました。建物としては変わらないけど、宗教だけかわるということが過去にはあったのです。
カンボジアでおもしろかったのが、アンコールトム。アンコールトムは建物自体は屋根のところに仏像の顔が書いてあるので元々は仏教寺院として作られています。ところが時代の流れとともに仏教寺院ではなくヒンズー教寺院として変わった時にヒンズー教の人たちから仏像をが建物の壁から取り払われてしまうということが起きていました。
ところがいつの時代もこういう建物に関してもったいないとか、保全したいと考える人がいるようで下記の写真の通りアンコールトムの建物のてっぺんには顔が東西南北の4面に刻まれているのですがこれを壊すのはもったいないと考えた人がいたようで、写真のところに第3の目を入れることで、ここに描かれている仏像は仏像ではなくて、第三の目をもっているヒンドゥー教の神様、つまりシヴァ神であるということにして壊すのを免れたということでした。
ちなみに、ヒンズー教ではこの第三の目が開いたときは見えたものがすべて焼き払われてしまう、ということです。恐ろしい。。。
チャンパ王国とは?
チャンパ王国は、かつて今のベトナム中部にあった古い国です。この地域は海に近く、美しい砂浜や山があります。現在でもその砂浜や山は観光地として栄えています。
チャンパ王国は、独自の文化や言語を持っていて、美しい寺院や彫刻がたくさんありました。ミーソン遺跡という有名な場所は、その昔チャンパ王国が建てた寺院で、遺跡の場所にはたくさんの建物が遺跡として残っています。
チャンパ王国の主要な都市の一つは「インドラプラ」と呼ばれていました。「インドラプラ」は、チャンパ王国の首都としても機能しており、多くの時期にわたって非常に重要な役割を果たしていました。この都市は今のベトナム中部に位置し、現在のクアンナム省にあたります。特に、ミーソン遺跡がその地域に位置しており、かつてのチャンパ王国の寺院や建造物が残されていることで知られています。
現在のミーソン遺跡を見ると感じるのですが、やはり同じベトナムでもハノイとは少し違う雰囲気を感じるのはこのような歴史的背景があるからなのでしょう。下記の図面でチャンパ王国のあった地域をみるとなるほどと感じます。
チャンパ王国はいつできた?
チャンパ王国は紀元2世紀ごろに始まったとされています。この国は何世紀にもわたり、隣国と戦ったり、貿易を行ったりしながら発展しました。しかし、15世紀にはベトナムの他の勢力によって徐々に力を失い、最終的には滅びました。
チャンパ王国が力を失った主な原因となった他の勢力は、北からのベトナム(大越国)です。この時代のベトナムは、南への拡大を進めており、チャンパ王国と数多くの軍事的衝突を繰り広げました。上で説明した青色の大越国エリアがだんだんと南側、つまり図面で下側へと伸びてきて、チャンパ王国を滅ぼしたのです。
10世紀から15世紀にかけて、ベトナム(大越国)の力が強まるにつれて、チャンパ王国の領土は徐々に侵食されていきました。特に、李王朝の時代(11世紀)や後黎朝の時代(15世紀)には、ベトナムの南下政策が積極的に行われ、チャンパ王国は多くの領土を失いました。1471年には、後黎朝の皇帝レ・タイン・トンがチャンパ王国に大規模な侵攻を行い、首都を含む多くの地域を占領し、チャンパ王国の力は大きく衰えました。
この他にも、カンボジアのアンコール王朝とも領土や影響力を巡る争いがありましたが、チャンパ王国にとって最も大きな脅威となったのはベトナムの勢力でした。ちなみに、アンコール王朝のアンコールワット遺跡には、メコン川からトンレサップ湖に上ってきてアンコール王朝とたたかうチャンパ王国の軍隊との様子が壁画にかかれています。
チャンパ王国は何族?
チャンパ王国の人々は「チャム族」と呼ばれています。チャム族は、今もベトナムやカンボジアに少数派として住んでいます。彼らは独自の言語や宗教を持っており、その文化はチャンパ王国時代から引き継がれています。チャム族は主にイスラム教またはヒンドゥー教を信仰しており、独自の伝統的な音楽やダンスを楽しんでいます。
この伝統的なダンスというのがアプサラ踊りといわれるもので、ヒンズー教のシヴァ神にささげる踊りです。はじめにわたしはチャンパ王国のミーソン遺跡にいっていたので、てっきりこのアプサラ踊りがチャンパ王国のチャム族特有のものだとおもっていたのですが、カンボジアのシェムリアップ、アンコールワットを見に行ったら、まさにこのアプサラ踊りをカンボジアでも行っていました。
今では違う国ですが、やはり遠い昔に戦った歴史があるくらいですから、文化的交流もあったのだと思われます。下記の写真はカンボジア、アンコールワット遺跡の近くで見たアプサラ踊りの一幕です。
ミーソン遺跡は、主にヒンズー教の遺跡です。この遺跡群は、チャンパ王国時代に建てられた多くの寺院やモニュメントから成り立っており、ヒンドゥー教の神々、特にシヴァ神を主に祀っています。ミーソンは、その建築様式や彫刻で知られており、ヒンドゥー教の神話や伝説が表現されているレリーフが多数あります。
この遺跡群は、かつてのチャンパ王国の宗教的中心地の一つであり、政治的にも重要な場所でした。ミーソン遺跡は、チャンパ王国の芸術と建築の粋を集めた場所として、またその文化的重要性から、ユネスコの世界遺産にも登録されています。
チャンパ王国の失われた技術とは?
ミーソン遺跡に関連する失われた技術として最も注目されるのは、その建築技術、特にレンガ造りの技法です。チャンパ王国の建築者たちは、レンガを非常に密接に積み上げる方法を用いており、その接着剤が何であったか今日まで完全には解明されていません。これらのレンガは非常に精密に組み合わされており、継ぎ目がほとんど見えないほどです。科学的調査によって、レンガの間には何らかの有機物質が使われていた可能性が指摘されていますが、その正確な成分や製造方法は失われてしまった技術とされています。
私はミーソン遺跡に行った時にガイドさんからこの説明をうけ、失われた技術というのがどんなものなのだろう、と思うくらいレンガガピッタリと積まれていました。
一方で先日、カンボジアのアンコールワットに行った時に1つ面白い話を聞きました。アンコールワットにおいてもレンガ積みがあるのですがアンコールワットにおいてはレンガが完全に乾いたものがつくられていなく、半乾きのものであったということ。
そして、その半乾きのレンガを積み重ねていったということです。半乾きのレンガだったためにそのままに置いておくことでいつの間にか時間と共に上下のレンガがぴったりとくっついたのだという説明をガイドさんから受けました。
チャンパ王国の建物は明らかにアンコールワットの建物と関連があって影響を受けているように見えますので実は失われた技術として言われていた接着剤が何かというのは、実は接着剤を使っていなくて、この乾ききっていないレンガを積み上げたことで最終的にあのようなぴったりとくっついたような状態の建物となったのかもしれないと考えます。
ヒンズー教寺院のリンガとヨニ
いろいろな歴史的背景、技術関連などを感じながら遺跡めぐりをするのは楽しいものです。ちなみにヒンズー教では男性器、女性器をイメージしたリンガ、ヨニといわれる造形物があるのですが、これもほんと似たようなものがチャンパ王国の遺跡であるミーソン遺跡にもあり、アンコールワットにもありました。
下の写真がアンコールトムの遺跡で見かけたリンガとヨニ。
人間はこれら男性器、女性器の結合から生まれるわけで神秘といえば神秘です。そのようなことが1000年以上も昔から考えられていたことも私にとっては神秘に感じます。
以前、日本の映画で長澤まさみさんの出演している「WOOD JOB」でお祭りで大木を男性器にみたてて子孫繁栄を願う場面がありました。場所がちがえど、やはりこうした信仰心はどの世界もかわらないのだと改めて感じさせてくれます。
考えてみれば、自分が生まれていま、生きていることのはじまりはリンガとヨニからですからね!