『スポーツに言葉はいらない』。。。ことはない
スポーツ 言語の壁
『スポーツには言葉はいらない』
という話がよくありますが、今回は私がベトナムにおいてサッカーを通じて、『スポーツはそうは言っても言葉は必要』と感じたエピソードを紹介していきます。
1.サッカーでは言語化を通した意思統一が必要
海外に来て初めの頃はサッカーを通じて友達も増えたし知り合いも増えてとても楽しかったのを覚えてます。思えばボールを受けていたおじさんに声をかけて一緒にボールを切り出してからサッカーの輪が広まりあっという間にサッカーの試合が5人、10人、30人、そして。。。50人。。。と増え、たぶん今では100人以上知り合いがいます
その頃は言葉を喋れなくてもサッカーをすることで草サッカーだったこともあり、また、経験者である私の場合は優位にたてることも多々あったので、時にはシュートを決めることで今から喜ばれることも多かった。
調子に乗って自分をまだまだできると考え40代ではあったがどんどん若手のグループに入っていき大学生ぐらいとやる頃になっていくと1つの壁ができてきた。やはり日本でもそうだけどある程度のレベルに来るとチーム力というのは重要でチームとしての戦術が重要になる。
この時に感じたのがサッカーではある一定以上のレベルになるとやはり言語化を通した意思統一が必要ということ。例えば前からプレスをかけるときに、そんなに前からではなく、ハーフライン付近からにしよう、とかそういう言葉でのやり取りが必要ということである。
2.【スポーツ、言語の壁】もちろん草サッカーなら大丈夫
もちろん草サッカーであればそんなプレスの書き方などはどうでもいいし個人能力でプレスをかけて簡単に取れることもあるので特に問題ないがレベルが上がってくると日本と一緒で右サイドを切れとか左サイドを切れとか前からそれほど行くなとかそういう支持が必要になってくる。
またそういったことも試合中に突然言ったって相手は何を言ってるのかわからないしそうなってくると事前に自分の考えを説明してこういう理由であまり前からプレッシャーには行ってほしくないとか説明が必要になってくる。
もちろんお遊びのサッカーではそこまではしないのだがこの辺りが日本人同士でサッカーをしているとなんとなく同じ絵をかけるものであるがてんコミュニケーションができないベトナム人相手だとそういったことがなんとなくではできないところが難しい。
3.【スポーツ、言語の壁】超一流なら言葉を超えて同じ絵を描けるのかもしれない
ただそうは言っても例外はある。テレビの時代はベトナムと日本では情報量というのはかなり違ったかもしれないが今はインターネットの力で見れるサッカーの量というのは実はあまり変わらない。
日本とは少し見れる範囲が違うかもしれないがベトナムに来た頃はよく冨安富安と言われたものである。日本ではそれほど冨安、富安と皆が言っていた記憶はなかったのでやはりベトナム人のよく見る、もしくは見れるサッカーの試合が冨安が出ている試合が多かったのだと思う。
蛇足だが、ベトナムのダゾーンはボクシング等は見れるがサッカーは見れない。。。そんな環境だが、富安の試合は見れるようだ(笑)
話はずれたが今日はいいサッカーを見ている者同士はイメージが一緒のものを描けることが多いのでそれほど言葉を言わなくても同じようなプレーをしてくれるものである。私はある程度言語化して話をすることが必要だと感じていたが超一流の人たちであれば特に話をしなくても同じような絵が描けて同じようなプレーをイメージしてゴールまで行くのかもしれない。
4.【スポーツ、言語の壁】言語の不都合な真実
言語の不都合な真実といえば大げさだが鳥羽というのは一度では伝わらないということが世界共通のこととしてあげられる。私のベトナムに来て思ったのは世界の人たちはほとんど人間としては変わらないということである。
たまたまベトナムという東南アジアの国だったこともあり余計そのように感じたのかもしれないがいろいろ文化等は違うとこはあるけど人間としては一緒である。何が言いたいかというと例えば話す時に人の言ったことはあまり覚えてないということなんかは世界共通なんだと感じています。
エビングハウスの忘却曲線という有名な話があるが、あれで行くと人は20分経てば42%を忘れ、1日後には66%を忘れている。
これは人としては共通のことで日本人であろうとベトナム人であろうと一緒である。つまりはたとえサッカーといえどこうやってほしいと伝えたとしても20分も経てば42%は忘れてしまうということである。
だから草サッカーをする際などはまたあの人は同じことをやってるみたいなことを思うこともある。言葉というのは便利ではあるけれども人に伝えるもしくは人に伝わるという意味ではなかなか難しいものである。
5.【スポーツ、言語の壁】壁を乗り越える
さてこうしたスポーツの言語の壁を乗り越えるためにはどうしたらいいかというとこに行くと私の結論としては何回も言うことにつけると思っている。とはいえ人というのは何度も言われると嫌なものである。
『人から何度も同じことを言われるのは嫌』というのも世界共通である。
だからこそ私の考えは草サッカーといえで毎回顔を出すようにして自分のやりたいサッカーのイメージをみんなに伝えるようにして自分の理想のサッカーに近づけれるということである。
そしてこういうことは、ザイオンス効果と呼ばれる単純接触効果として知られていることですが何度も何度もあっているとその人の印象や好感度が上がってその人の意見を聞き入れてくれる可能性が増えるというものがあります。まさに異文化に飛び込んだ場合はこの接触頻度を上げるという行動が重要なのではないかというのが私のこの短い期間ではありますがベトナム勤務で感じたことです。
仕事ではなかなか合わない人でもサッカーで何度も会ううちにこの人がどういう行動するとかどういう雰囲気の人かというのが自然とわかるようになりそれが巡り巡って仕事上でのいい関係にもつながるというのを感じています。
6.【スポーツ、言語の壁】二重人格は素敵だ(松岡修造選手=元テニスプレーヤー)
最後に、世界で言語の壁を乗り越えるためにとてもいい言葉を本日はじめてきいたので共有させていただきます。それが松岡修造さんの二重人格は素敵だという言葉です。私は今日まで知らなかったのですがこの言葉は日本人が世界に行ってた時にとても使える言葉と感じます。日本にいると以心伝心とか言わなくてもわかるだろうと言った考えがはびこっていますが世界に出たら絶対にそんなことはなく文化も違うし生きてきた土壌も違うので絶対に言葉で説明することが必要です。
そんな時に必要なのがこの二重人格は素敵だという考えです。どういうことかと言うとともすると世界に出るとつい何か言葉を発することに億劫になってしまって言わないという選択肢を選んでしまうこともあると思いますがそんな時は自分をマネジメントするもう一人の人間を作りその人間に頑張らせるのです。言わなくてもいいかと思った瞬間にいや結果を得るためには言わなくてはだめだというもう一人の自分を作り結果のために動くのです。
【結果を得るために二重人格を使う】
私はサッカー選手ではありませんが仕事の場においてはまさにこの二重人格という考えを重要ししてきたなあと今更ながら思います。仕事においては、完全なものをつくりたいという気持ちがあるので、嫌な顔をされるかもしれないという思いを振り切って、結果のために嫌と思われることでも話をする勇気を持ち合わせています。
残念ながら草サッカーでは、あくまでも草サッカーなので、学生の頃はともかく、その時とは違って今は他人に自分の考えを伝えてなるべく自分の考え通りに動いてもらうなどといったことはあまりしませんが、先ほど言ったように、何回も何回も一緒にプレイすることで自分の考えを伝えるということを実行しています。
思えば世界で活躍した本田圭佑選手や少し前であれば中田英寿選手といった選手たちはそういった意味で自分の考えをしっかりと言葉で伝えてきた選手であったなあと感じます。フィールドを間違えど仕事においてはこれからも20人格を発揮して頑張っていきたいと感じます。また日本の選手においては引き続き海外にどんどん出て行って言語化能力を鍛え世界の中でも日本の代表として頑張ってほしいと思います。