こんにちは、Rikisei です。
バングラデシュを訪れた方々からよく聞かれる疑問の一つに、「街中で女性をあまり見かけない」というものがあります。確かに、バングラデシュの公共空間、特に市場や茶屋(チャイショップ)、娯楽施設などでは、圧倒的に男性の姿が目立ちます。
これは単なる偶然ではなく、様々な歴史的・社会的・経済的・宗教的要因が複雑に絡み合った結果です。今回は、「なぜバングラデシュでは女性をあまり外で見ないのか」という問いについて、深掘りしていきたいと思います。
バングラデシュ社会の概要と女性の地位
まず、バングラデシュという国について簡単に理解しておきましょう。
- 人口: 約1億6500万人(2023年)
- 宗教: イスラム教(約90%)、ヒンドゥー教(約9%)、その他(約1%)
- 政治体制: 議会制民主主義(ただし政治的には不安定な面も)
- 経済: 低中所得国、主要産業は衣料品製造業と農業
バングラデシュは、1971年にパキスタンから独立した比較的新しい国家です。ベンガル文化とイスラム教が融合した独特の文化を持ち、「穏健なイスラム国家」として知られています。しかし、家父長制が色濃く残り、ジェンダー規範は依然として保守的です。
都市部と農村部の違い
バングラデシュでは都市部と農村部で大きな差があります。人口の約65%が農村部に住んでおり、そこでは伝統的な価値観がより強く残っています。一方、首都ダッカなどの都市部では、女性の社会進出が徐々に進んでいますが、それでも公共空間における女性の存在感は限定的です。
例えば、日本や欧米の都市では、カフェや公園、ショッピングモールなどで女性の姿を普通に見かけますが、バングラデシュの茶屋(チャイショップ)は今でも「男性の社交場」という性格が強く、女性が一人で入ることは稀です。
家父長制と伝統的なジェンダー規範
バングラデシュ社会は伝統的に家父長制に基づいており、以下のような考え方が根強く残っています:
- 女性の主な役割は家庭内での仕事(家事・育児・高齢者の世話など)
- 公共空間は基本的に「男性の領域」である
- 女性は家族(特に父親、夫、息子)の保護下にあるべき
- 家族の「名誉」は女性の行動と密接に結びついている
こうした価値観は農村部でより強く、都市部の教育を受けた中上流階級ではやや緩和されていますが、社会全体の規範として今なお大きな影響力を持っています。
タスリマ・ナスリンの視点:抑圧の構造と女性の自己決定権
バングラデシュ出身の作家・フェミニスト活動家であるタスリマ・ナスリンは、その著書『ラジャ』や『恥』などで、バングラデシュ社会における女性の地位について鋭い批判を展開してきました。彼女の視点から、この問題を考察してみましょう。
イスラム教の解釈と女性の地位
ナスリンによれば、バングラデシュにおける女性の公共空間からの「不在」は、イスラム教の保守的な解釈と結びついています。特に「パルダ」と呼ばれる女性隔離の習慣は重要な要素です。
パルダとは、簡単に言えば「男女を分け隔てる」という慣習で、物理的な仕切りや服装による隠蔽(ヒジャブなどのスカーフ着用)、そして行動規範(男性の目に触れない)という形で表れます。
ナスリンが指摘するのは、パルダの本来の意図が「女性の尊厳を守る」ものであっても、それが実際には「女性を公共空間から排除する」道具として機能していることです。彼女の言葉を借りれば:
「私たちは『保護』の名のもとに自由を奪われている。その『保護』とは実は、男性の所有物としての価値を守るためのものなのだ」
安全と名誉の問題
公共空間で女性の姿が少ない理由のひとつに、安全上の懸念があります。バングラデシュでは、残念ながら女性に対するセクシャルハラスメントやイブティージング(口笛や卑猥なコメントなど)が一般的に見られます。
これに対し、保守的な解決策は「女性を家に留めておく」ことであり、進歩的な解決策は「公共空間を女性にとっても安全にする」ことです。ナスリンは一貫して後者を主張し、女性の行動を制限するのではなく、社会の態度を変えるべきだと訴えています。
また、バングラデシュでは家族の「名誉」(イッジャット)が非常に重視され、女性の行動がそれに直結すると考えられています。若い女性が一人で外出したり、知らない男性と話したりすることで、家族の評判が傷つくと考えられているのです。
これに対しナスリンは「名誉とは何か?」という根本的な問いを投げかけます。名誉が女性の行動規制と結びつくことで、女性は社会参加の機会を奪われていると彼女は主張します。
社会的圧力と集団的同調性
もう一つ、ナスリンが強調するのは社会的圧力の力です。バングラデシュのような集団主義的な社会では、規範からの逸脱に対する社会的制裁が非常に強力です。
例えば:
- 一人で外出する女性は「品がない」と陰口を言われる
- 男性が多い場所に入る女性は「誘っている」と誤解される
- 伝統的な服装をしない女性は「西洋かぶれ」と批判される
こうした社会的圧力が、多くの女性を「安全な選択」—つまり家にいること、あるいは必要な時だけ外出すること—へと向かわせます。これは「失敗から学ぶ」というよりも、「失敗(社会規範からの逸脱)を避ける」ことを優先する社会の特徴を示しています。
アマルティア・センの視点:機会の不平等と経済的自立
インド出身の経済学者アマルティア・センは、その「潜在能力アプローチ」を通じて、自由や機会へのアクセスという観点から貧困や不平等を分析しています。彼の視点から、バングラデシュの女性の状況を考えてみましょう。
「潜在能力アプローチ」から見る移動の自由
センによれば、人間の福祉を測る真の尺度は所得だけでなく、「自分が価値を置く生活を送る自由」にあります。この観点から見ると、バングラデシュの女性が公共空間で活動する自由が制限されていることは、単なる文化的特性ではなく、基本的な「潜在能力」の制約なのです。
「移動の自由」は他の多くの自由(教育、雇用、社会参加など)の前提条件となります。自由に外出できなければ、学校に通うことも、働くことも、政治に参加することもできません。
センが強調するのは、こうした制約が単に個人の選択や文化的嗜好の問題ではなく、構造的な不平等の表れだということです。彼の表現を借りれば:
「真の不平等は、選択肢の不平等である。制約された選択の中から『選ぶ自由』があることは、本当の自由とは言えない」
経済的自立と公共空間でのプレゼンス
センの研究では、女性の経済的自立が家庭内外での発言力と密接に関連しています。これを「交渉力」と呼ぶこともできます。
バングラデシュでは、女性の労働参加率は近年増加しているものの(約36%、2021年)、依然として男性(約81%)より低く、多くの女性が経済的に夫や父親に依存しています。この経済的依存が、公共空間での活動を制限する一因となっています。
例えば、次のような循環が生まれます:
- 公共空間への不平等なアクセス → 教育・雇用機会の制限
- 教育・雇用機会の制限 → 経済的依存
- 経済的依存 → 意思決定権の弱さ
- 意思決定権の弱さ → 公共空間への不平等なアクセス(循環)
センはこの悪循環を断ち切るためには、女性の教育と雇用機会の創出が不可欠だと主張します。実際、バングラデシュの衣料品産業で働く400万人以上の労働者の約80%は女性であり、この経済的変化が徐々に社会変化をもたらしています。
「見えない労働」の問題
センがもう一つ重視するのは、女性の「見えない労働」の問題です。バングラデシュの女性たちは、家事・育児・高齢者の世話など、経済統計には表れない大量の無償労働を担っています。
この現実が、「女性が外で見られない」現象の一因でもあります。一日の大半を家事労働に費やす女性には、単純に外出する時間的余裕がないのです。センはこの見えない労働を可視化し、再評価することの重要性を訴えています。
例えるなら、氷山の水面下の部分のようなものです。私たちが街で見るのは「氷山の一角」であり、大部分の女性の労働は家庭という「水面下」で行われているのです。
変化の兆しと女性のエンパワーメント
バングラデシュ社会は静的なものではなく、特に過去30年で大きく変化してきました。女性の公共空間での可視性も、徐々にではありますが、増加しています。
縫製産業の発展と女性労働者
バングラデシュ経済の主要産業である縫製業は、女性の経済的エンパワーメントに大きな役割を果たしています。前述のように、この産業では約400万人の労働者の大半が女性です。
朝夕の通勤時間帯には、工場地域で多くの女性労働者の姿を見ることができます。彼女たちの経済的自立は、徐々に家庭内での発言力を高め、公共空間での存在感も増しています。
「自分で稼いでいるのだから、自分の意見も言っていい」—この意識が、若い世代を中心に広がってきています。
教育へのアクセス改善
バングラデシュ政府は女子教育を優先政策として推進しており、その成果は徐々に表れています。小学校就学率では女子が男子を上回るようになり(女子98%、男子97%、2019年)、中等教育でもほぼ同等になっています。
これは「女子教育奨励奨学金」や「食料支援プログラム」など、政府とNGOの取り組みの成果でもあります。教育を受けた女性は、より自由に公共空間で活動する傾向があります。
例えば、大学のキャンパスでは男女比がほぼ均衡し、若い女性たちがカフェで勉強したり、友人と歓談したりする姿も見られるようになってきました。
NGOや国際機関の取り組み
バングラデシュには、女性のエンパワーメントを支援する多くのNGOがあります。特に有名なのは「BRAC」や「グラミン銀行」で、マイクロクレジット(小規模融資)を通じて女性の経済的自立を支援しています。
これらの組織は、単に融資を提供するだけでなく、ビジネススキルの訓練、健康教育、子どもの教育支援など、総合的なアプローチを取っています。特に農村部の女性グループに対する支援が活発で、これが徐々に女性の社会的地位向上につながっています。
例えば、BRACが支援する女性起業家グループのメンバーは、市場で自分たちの製品を販売するために定期的に外出するようになり、これが女性の公共空間での存在を「正常化」する効果を持っています。
都市部における変化と世代間ギャップ
変化は特に都市部の若い世代で顕著です。スマートフォンやソーシャルメディアの普及により、若い女性たちはより広い世界とつながり、新しい価値観に触れています。
ダッカやチッタゴンといった大都市のショッピングモールやレストランでは、若い女性グループの姿も増えてきました。彼女たちの多くは、母親や祖母の世代より自由に外出しています。
この世代間ギャップは、時に家族内の軋轢を生みますが、これこそが社会変化の過程でもあります。一般的に、変化は「一世代に15度」と言われます。つまり、急激な変化は混乱を招くため、社会は徐々に変化するのです。
今後の展望と課題
バングラデシュにおける女性の公共空間での可視性は徐々に高まっていますが、依然として多くの課題があります。
女性の権利向上を妨げる構造的問題
変化を妨げる根本的な問題として、以下のような構造的要因があります:
- 経済的不平等: 土地や資産の所有権が依然として男性に集中
- 法制度の矛盾: 憲法は男女平等を保障するが、家族法は宗教法に基づいている
- 安全の問題: 公共空間での女性に対する暴力やハラスメントの存在
- 意思決定機関での女性の少なさ: 政治や行政の上層部での女性比率の低さ
これらの問題は相互に関連しており、包括的なアプローチが必要です。
伝統と近代化のバランス
バングラデシュが直面しているのは、伝統的価値観と近代化の調和という課題です。外国の価値観を無批判に取り入れるのではなく、バングラデシュ独自の発展モデルを模索する声も高まっています。
ナスリンの主張するような急進的な変革と、センの提唱するような漸進的・実践的アプローチのバランスが求められているのです。
重要なのは、「女性が外に出る/出ない」という二項対立ではなく、女性自身が自由に選択できる社会を目指すことでしょう。セキュリティが確保され、経済的機会があり、社会的圧力が軽減された環境では、自ずと女性の公共空間での存在感は高まっていくでしょう。
国際的な連帯と内発的発展
バングラデシュの女性たちは、グローバルなフェミニズム運動との連帯を深めながらも、ローカルな文脈に根ざした運動を展開しています。
例えば、「ナリポッコ(女性のための)」などの女性団体は、イスラム教の教えと女性の権利が両立可能だと主張し、宗教指導者との対話も進めています。これは外部から強制された変化ではなく、内発的な発展の一例です。
おわりに:複雑に絡み合う多くの要因
「バングラデシュでは女性をあまり外で見ないのはなぜか?」—この問いに対する答えは、一言では語れない複雑なものです。宗教的背景、経済的要因、安全の問題、伝統的価値観、家父長制、教育へのアクセス、そして個人の選択など、多くの要素が絡み合っています。
タスリマ・ナスリンが指摘するように、女性の抑圧という側面があることは確かです。同時に、アマルティア・センが強調するように、経済的・社会的機会の不平等という構造的問題も無視できません。
しかし、バングラデシュ社会は静的なものではなく、特に若い世代を中心に大きく変化しています。徐々にではありますが、女性の社会参加は増え、公共空間での存在感も高まってきています。
最後に、私たちが外部の観察者として気をつけるべきは、単純な文化的ステレオタイプや一方的な価値判断を避けることです。バングラデシュの女性たちは、自分たちの社会の中で、自分たちのやり方で、日々変化を生み出しているのです。
女性が自由に選択できる社会—それがバングラデシュの、そして世界中の多くの女性たちの願いではないでしょうか。あなたの住む社会では、女性の「見える/見えない」はどのような形で表れていますか?